History 理事長ヒストリー
医療法人 志結会理事長
おざき歯科医院 院長
尾崎亘弘
歯科医師の尾崎亘弘と申します。2015年8月3日にこの生まれ育った泉州の地で、そして遠方からでも通いやすいようにと関西空港から車で20分という、貝塚イオン内にて開業いたしました。
私は、この志結会を、100年後に向けて、医院理念と7つのビジョンを実現できる医療法人となることを目指して、仕事に邁進しています。
このホームページに記した私のメッセージやブログは、
- 現従業員に対する指針であり、
- 志結会が求め求められる未来の従業員への覚悟を問うメッセージであり、
- 患者様への決意表明でもあり、
- 100年後である2115年という将来への遺言
でもあります。
このブログが、口下手な、私の背景を知っていただく一助となれば幸いです。
私の生い立ちや、どうして歯科医師になったのか、歯科医師としてなにを勉強してきたのか?なぜこのような形の歯科医院を開業したのか、歯科医師としての私の姿勢や思いが、皆様に少しでも伝わればと思っています。
引き続き、地域の皆様の健康を支えるために努力して参りますので、どうぞよろしくお願いいたします。

私の人生理念「口の健康を通じて、かかわる全ての人々と共に、経済的にも精神的にも豊かになる」
私の人生におけるミッション・人生理念は、
この医療法人志結会での医療を通じて高水準の医療を提供することで、
患者様、従業員、関係するメンバー全員とともに、
それぞれの人生が経済的にも精神的にも豊かになることです。
7つのビジョンを実現する
そしてそれを実現するために大切にしていて、常に考えていることが7つのビジョンになります。そしてその実現のためにあらゆるアクションを起こしていっています。
そして、それ以外のことに、正直関心があまりありません。それ以外のことをしたいとも思っていません。そしてそれ以外のことをするだけの人生の時間もありません。
100年後私が死んだ後も、この医療法人の医院理念と7つのビジョンが実現される組織を創ることが、私の使命です。
泉州から歯周病をなくすために
生まれ育ったこの泉州から歯周病を無くしたい、歯を失って困っている人がいなくなることを願っています。 そのために予防型の歯科医院を開業しました。そして、家族がみんなで安心して末永く通える歯科医院にしていきたい、長いお付き合いをしていきたいと願っています。
私を形作るもの
世界に誇れる、日本一の歯科医療法人を創ることが、私のライフワークです。
寝ても覚めてもそればかり考えています。
私の人生の師は、松下幸之助先生、稲盛和夫先生、ナポレオン・ヒル博士、相田みつを先生です。「思考は現実化する」、「ビジョナリー・カンパニー」、「7つの習慣」、「ユダヤ人大富豪の教え」が座右の書です。
一流の歯科医師・歯科衛生士が切磋琢磨する医療法人・歯科医院という組織を作り、泉州からひいては日本・世界の歯科医療に貢献する。それが私の仕事です。
私は、20歳で歯学部に入学してから、自分の時間の大半を臨床と経営のために捧げてきました。土日に含め20年以上の歳月を歯科臨床、歯科医院経営に費やしてきました。
1000万円以上の技術研鑽に費用を投じてきました。それを法人内では、明確に求めるものには、惜しげもなく伝えています。
理事長ヒストリー:生まれてから40歳まで、仕事✕家庭
<はじめに:自分の人生を振り返り>
これは、将来、自分もどのような職業人・社会人になりたいか考えている若者が自分の人生を考えるとき一助になってほしい・読んでほしいと思い、書き記します。
もっと突き詰めたら、私の大切な娘2人が、人生の岐路に立った時に父親ならどうしたか、考える材料になって欲しいと思い記しています。
開業歯科医・歯科医師として、自分の満足する一定の成功をすることができました。
まだ道半ばですが、
- 自分と家族の生活の基盤ができ、
- 大切な家族との時間を持つことができ、
- 自分の追求したい好きな仕事をすることができ、
- 大切な組織のメンバーに囲まれ仕事ができ、
- メンバーへの人生の成長を支援でき、
- 後輩の成功のサポートをする心の余裕ができ
- 業界、日本を良くしたいという心の余裕ができるようになりました。
- 自分の小ささ弱さも受け入れ、人に感謝することができるようになりました。
- 明日死んでも満足いけるだけのことをしてくることができました。
- 明日死んでも後悔しない今日一日の過ごし方ができるようになってきました。
私は、小さいときから、社交的ではなく内向的な性格でした。
幼少期は毎月病院に通っている身体的な弱さも抱えていました。一番古い記憶は、布団で熱を出して寝込んでいる記憶と、生きるということは苦しい、辛いという気持ちでした。幸い元気に育ったものの、少しの気温の変化やストレスで体調を崩すことを今でも自覚しています。
これまでの人生の中で小さな成功体験と幾度となく訪れる挫折を経験してきました。
生きていることは、苦しい・辛いという感覚はずっと残っていました。勇気のない自分にとって命は続くものであり、そんな中で私ができるのは、少しでも良くなろうとする、愚直なまでの努力と、本音を伝えることのみだと、思春期に悟りました。
家族、医院の本当に信頼できるメンバー、周りの仲間・先輩・後輩たちの支えがあってこそ、今の自分が存在します。彼らの助けと理解は、私の人生における大きな支えであり、そのことに深い感謝の気持ちでいっぱいです。
これからの人生では、残された日々を一日一日大切に生きていきたいと思います。
自分の命を、自分にできる範囲で、そして自分の手の届く人たちのために使っていくことに決めました。
私の苦い経験や、私なりの努力が、他者の役に立つことができれば、それが私にとっての最大の喜びです。
この振り返りを通じて、私の人生の旅路、挫折と成功、転機、そして学びと成長の物語を綴っていきます。一人の人間が自己受容に至り、周囲と共に歩むことの意義を見出した旅の記録です。
もし私がこの世を去ったあとも、私がこの医療法人志結会を通じて実現したかったことは、続いていくと信じています。
この文は、私が100年先の2115年に向けて残す医療法人の財産であり、ある意味では私の遺言のようなものです。
初代理事長である私の目標は、私が築いた医療法人志結会を、バトンタッチし、未来に残し、続く世代への貢献として永続させることにあります。
私の現在進行形の活動は、Twitter(現X)、Facebook、そしてこの法人の理事長ブログに記されています。これらのプラットフォームを通じて、私の考え、ビジョン、そして日々の活動が公開され、共有されています。
幼少期
<幼少期の記憶、病床>
私の幼少期は、病弱な日々で印象づけられています。
毎月のように小児科を訪れ、病気と向き合う生活が続いていました。
私に残る幼い頃の記憶は、ほとんどが布団に入り熱にうなされていることでした。
「苦しいのになぜ生きるのだろう、、、。」これは、物心ついたときに一番はじめに思っていたことでした。
3人兄弟の長男として、家族からは「長男だから我慢しなさい」と言われることが多く、小さな身体で我慢を強いられていたことを覚えています。
幼少期の私にとって、病弱という辛い経験は、生きていく上での意味を深く考えさせる原点となりました。確かに、それは苦痛でしたが、同時に強さと忍耐力を養う貴重な機会であったとも思います。
苦しみを経験することの意味を見出し、それを乗り越えたときに見える景色があると感じるようになりました。
このような試練を通して、人生の多くの困難に立ち向かうための心の強さを育てることができたと信じています。これら幼い頃の経験が、後の人生における私の自我を形成し、非常に強固な基礎となりました。
幼稚園時代の思い出も、苦しみや挑戦と密接に結びついています。病弱な私は「生きる」ということが苦しいと感じていました。病弱であることがもたらす限界や、家庭内での期待との闘いが、私の幼少期を定義づけていたのです。
<幼少期の反復する悪夢>
幼少期に熱を出すたびにいつも見る、ある特定の夢が私を悩ませました。それは、何かに追われる怖い夢でした。
夢の中で私は必死に走り、逃げようとしますが、なかなか前に進むことができません。追い詰められる感覚に怯えながら、心臓の鼓動が激しくなり、焦燥感に襲われるという内容です。
その夢はとてもリアルで、まどろんでいるとまた同じ夢を見ることが多く、それが繰り返されました。毎回、その夢から覚めたときは心臓がバクバクしており、深い不安感に包まれるのでした。
この反復する夢は、私にとって無意識の不安やストレスの表れだったのかもしれません。病弱だった幼少期、体が弱いことへの無力感や、周囲の期待に応えられないという焦りが、夢という形で表現されていたのかもしれません。
今振り返ると、この夢は私の心の中にある何かを映し出していたように思います。それは、幼い心が抱えていた恐怖や不安、そして逃れようのない現実との格闘の象徴だったのかもしれません。この経験は、後に成長した大人の私が自分自身の内面を理解し、それに向き合うきっかけとなりました。
小学校・中学校
<小学校>
小学生時代の私にとって、父との朝のジョギングは特別な時間でした。高校教師であり、野球部の監督でもあった父と一緒に、家の近くに流れる男里川の河川敷まで走りに行くのが日課でした。このときの経験が、私が走ることを好きになるきっかけとなりました。
また、小学校の図書室での読書も私にとっては楽しみのひとつでした。誰もいない静かな図書室で、邪魔されることなく本に没頭できる時間は、私にとって最高のひとときでした。棚の端から端まで、多種多様な本を読み漁りました。中でも「ズッコケ三人組」という児童向けの物語がお気に入りでした。
宇宙に対する興味もこの頃から始まりました。家にあった様々な図鑑の中で、宇宙に関するものが特に魅力的でした。100億年以上前に誕生した宇宙や、何十億年後に地球が太陽に飲み込まれるという事実に心を躍らせ、どきどきした記憶が残っています。
次に興味を持ったのは地球の歴史でした。太陽系の形成から地球の誕生、海の誕生や生命の進化について知り、甲殻類から魚、爬虫類、鳥類、哺乳類への進化、そして恐竜の絶滅に至るまでの過程に夢中になりました。まだ発見されていないことが多くあることに興奮し、将来は何か新しいことを研究し、発見したいという夢を抱いていました。
祖母からの言葉も、私の心に深く刻まれています。「友達は大切にしいや。良い友達は自分を高めてくれるんやで。良い友達を選びや」という祖母の教えは、私の人生観を形成するのに大きな影響を与えました。そして「勉強しなさい」という彼女の言葉も、後々の私の学ぶ意欲をもつ道標でした。
<小学校時代の塾>
小学生の頃、塾に通う時期がありました。塾に通うこと、そこで勉強に対して叱咤されることに強い嫌悪感を抱いていました。どうして勉強をしなければならないのか、その意味が理解できず、周りの友達が遊んでいる中、自分だけが塾に行くことに疑問と不満を感じていました。
当時は、勉強がなぜ必要なのか、なぜ自分だけが周りと異なることをしなければならないのか、その理由が分かりませんでした。しかし、今になって振り返ると、その時の勉強が、実は人生の大きな分岐点になっていたことを痛感します。
小学生の私には、勉強の重要性を理解することができませんでしたが、成長するにつれて、知識を深め、新しいことを学ぶことの価値を実感するようになりました。当時の経験が、後の人生においてどれほど価値あるものであったかを、今では深く感じています。
<中学時代>
中学時代は、何気なく始めた卓球部での活動が私の日常を大きく変えました。予想以上に厳しい練習とランニングに明け暮れる日々でしたが、休みの日も含めて練習に励んだ結果、阪南市の大会で優勝することができました。この経験は、私にとって大きな自信と達成感をもたらしました。
中学3年生になると、高校受験の準備が必要だという現実が迫ってきました。小学校時代の嫌な思い出がある塾への不安が残っていましたが、母の献身的なサポートがあったおかげで、勉強に取り組むことができました。母は遅くまで一緒に勉強に付き合ってくれ、そのおかげで公立のトップ校である岸和田高校に合格することができました。
受験の前の冬、日々勉強に明け暮れる日々は不安もありましたが、振り返ると楽しい時間だったと感じます。この期間は、自分自身の成長を実感できた貴重な時間であり、未来への一歩を踏み出すための大切なステップでした。母のサポートがなければ、私はこの道を歩むことはできなかったでしょう。
高校・浪人時代
<挫折の高校時代>
高校時代は、受験勉強から解放された安堵感に浸り、どこか心が緩んでいました。中学時代までの勉強への取り組み方が、「高校ではそれなりにやれば上位にいられるだろう」という過信につながっていたのです。
しかし、実際はまったく異なる結果が待っていました。以前は常に学年トップ10に名を連ねていた私も、高校では成績が学年下位に落ち込むという大きなショックを受けました。
今振り返れば、地元で一番の公立進学校に通っていたため、周りの生徒たちは皆、勉強が得意であることが当たり前だったのです。その事実に気づかなかった私は、勉強に対する姿勢を甘く見ていたのですね。
思春期真っ最中の高校時代は、私にとって暗黒時代でした。この期間を通じて、自分自身に対する深い疑問と劣等感に苛まれていました。
私は、生きている価値とは何か、自分の存在意義は何かという根源的な問いに常に頭を悩ませていました。
<高校時代、生きることの意味を考えた「倫理」>
この時期、私の中で「倫理」への関心が高まりました。
生きるということは辛いことなのに、なぜ生きるのだろう。ただ生きている。苦しく生きている。
生きる価値とはなんだろう。どうせ生きるなら、なにをすべきなのか。
どのように生きるべきかという問いに、私は深く思いを馳せていました。
<高校時代:生物学への魅了>
高校時代、私は生きることの意味と、それに密接に関わる生物学への興味を深めました。
この時期は、命と、それがどのように紡がれるのか、生命の神秘と複雑さ、そして自然界にある法則に強く魅了された時期でした。
生物学の授業や実験を通じて、生命の起源、進化、そして生物の多様性について学ぶことは、私の好奇心を刺激しました。
命を形作る細胞の仕組み、私を規定する遺伝子の役割、人と生物それを取り巻く生態系と環境とのバランスといったトピックに、生命の美しさに心を奪われました。
高校時代に生物学に触れ、特に生命の起源、DNAによる複製、そして進化について学ぶ機会を得たことは、私にとって新しい世界への扉を開いたような体験でした。これらのトピックは、私の知的好奇心を刺激し、生命の奥深さとその複雑性を理解するきっかけとなりました。
生命の起源を探求することは、私にとって宇宙と地球の歴史を遡り、生命がどのようにしてこの惑星上で誕生したのかを考えさせるものでした。一方で、DNAの発見とそれに基づく生物の複製メカニズムの理解は、生物がどのようにして遺伝情報を次世代に伝え、多様性を生み出すのかを学ぶことを可能にしました。
また、進化という概念は、種がどのように時間をかけて変化し、適応してきたのかを理解する助けとなりました。進化論は、生物が環境に応じて変化し、より適した形で生存するための戦略を展開してきたことを示しています。
これらの知識は、私にとって単なる学問的な学び以上のものでした。それは、生命という存在の素晴らしさ、その洗練されたシステム、そして我々人間自身が生命の一部であるという認識を深めるものでした。
この時期の学びは、私の世界観を広げ、生命に対する深い敬意と理解を育むことに大きく寄与しました。
生物学の学びは、私にとって単なる学問的探求ではなく、生きることの深い理解へと導く旅でもありました。
<高校時代:読書による自己発見>
高校時代、私の内面を深く形作ったのは読書でした。特に、ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」は、私に大きな影響を与えました。ナチスの強制収容所での経験に基づき書かれたこの本は、人間の苦悩と希望を深く掘り下げており、苦難を乗り越える強さと希望を見出すことの重要性について、私に深く考えさせてくれました。
また、「アンネの日記」も印象深い作品でした。ナチスの迫害の中で生きた同年代のアンネ・フランクが、生活にユーモアを持ち続け、困難を生き抜いた様子に触れ、その生き様に深く感銘を受けました。
エリザベス・キュブラー・ロスの「死ぬ瞬間」も、私の関心を惹きつけた一冊です。人が苦しみの中で生きる意味や、死を前にして何を考えるのかについて書かれており、私はその内容に強く関心を持ちました。その本を読むことで、私は自分自身がまだその境地に達していないことを知り、生き抜く必要性を強く感じました。
これらの書籍を通じて、私は人生の様々な側面や、生と死について深く思索するようになりました。高校時代の読書は、私の人生観を形成する上で非常に重要な役割を果たし、内面的な成長を促すきっかけとなりました。
高校時代は、自分自身と向き合い、内面的な葛藤と闘いながら、人生の意味を模索する重要な時期でした。この経験は、私の人生観を形成する上で欠かせないものとなりました。
<高校時代の苦悩から得た価値>
高校時代、私は劣等感の中、「生きている価値」と「自分の存在意義」についての根源的な問いに常に頭を悩ませていました。
この深い自問自答は、当時は苦しいものでしたが、今20年近く経過して、振り返ると、その経験に感謝の気持ちを持ちます。
この時期の苦悩は、私が後に歯科医師や組織の経営者として歩む人生において、大きな価値を持っていたと感じています。経営者として人と深く関わり、人の人生を幸せに導く仕事をする上で、生きる意味について深く考えてきた経験は、私の職業的な道を豊かにし、より深い理解と共感をもたらしました。
特に歯科医師として人々の健康に貢献し、経営者として組織を率いる際には、人生の意味や価値に対する私の洞察が、患者やスタッフへの関わりにおいて重要な役割を果たしました。
人々の幸せや健康に貢献することができる仕事を通じて、自分自身の生きる価値を見出すことができたのです。
振り返ると、高校時代の苦悩は、私にとって人生の転機となり、人間としての成長を促す原点だと感じます。この時期に経験した思索と苦悩は、今の私を形成する上で非常に重要な要素であり、その価値を大いに感じています。
<大学選択への迷いと歯学部へのいざない>
自分の学業成績が振るわず、未来に対する明確なビジョンも持てずにいた時、両親が歯学部への進学を勧めてくれました。
当初、私はその提案に乗り気ではありませんでした。なぜなら、私には歯学部が比較的易しい学部であるというイメージがあったからです。
そして、私の心の中には「研究をしてみたい」というぼんやりとした思いがあり高校時代には理学部への進学を考え、実際に受験もしました。その際、同時に歯学部も受験したのですが、正直なところ、私は自分が歯学部で学ぶ姿を想像することができませんでした。
現役時代に大学に受かることができない時自分の理想と現実の壁を直視しました。両親の提案を改めて考え、歯科医師という職業の意義や可能性を見いだし始めました。歯学部での学びが、将来においてどのような扉を開くことができるのか、また、歯学部でも研究ができるということも知りました。自分自身でその道を模索する決意を固めました。
この決断は、自分の将来に対する一つの賭けであり、新しい分野への挑戦でした。両親の勧めと、私自身の中に芽生えた歯学部での研究への興味が、私を歯学部へと導いたのです。この選択が、後の私の人生に大きな影響を与えることになるとは、その時はまだ想像もしていませんでした。
<浪人時代>
浪人時代は、私にとって人生の岐路となりました。どうすれば良いのか分からず、悶々とした日々を過ごしていました。塾にも通っておらず、学校の授業にもついていけない状況でした。
周りの友人たちは大学に進学し、楽しい声が聞こえてくる一方で、自分は惨めさを感じていました。自分を変えたいという強い願望と、周りに自分の現状を知られたくないという思いがありました。
浪人を決意したとき、私の両親はその選択を受け入れてくれました。ただし、彼らからは「1年以内に合格を目指してほしい」という願いがありました。大学受験に失敗し、自分にはこれが最後のチャンスだという圧倒的な重圧を感じていました。これからの未来に対する不安と、「大学に行きたい」という強い願望が入り混じっていました。
高校の延長線上という感覚で普通の予備校に通うだけでは、目標である大学合格は現実のものとはならないだろうと感じていました。その時点での自分が、どのように変われば大学合格が叶うのか、具体的なイメージが持てませんでした。
このような状況の中、私は自分自身を変えるため、そして大学合格という目標を実現するために、従来の学習方法や環境を一新する必要があると感じました。そのための一つの答えとして、特別な環境やカリキュラムを提供する予備校を選ぶことにしました。厳しいが故に成長できる環境、自分を追い込んででも成果を出せる場所が、私には必要だったのです。
そこで選んだのが、全寮制で徹底した学習管理が行われる両国予備校でした。ここでは、自分の限界を超える努力をし、目標達成のための新たな自分を見つけ出すことができると信じていました。
そんな中で、両国予備校への入学を決意し、親に相談しました。全寮制の厳しい予備校ですが、「あらゆる艱難辛苦を乗り越えて国立・難関私立・医歯薬系に進学する」というフレーズが、劣等感に満ちた私の心に強く響きました。当時の私にとって、それはもう後がないほどの挑戦でした。
予備校での生活は極めて厳格でした。朝の礼、集団での登校、毎日の小テスト、宿題、そして夜は22時までの勉強。寮では22時に消灯となり、寮監が夜間の見回りをしていました。自習時間中の居眠りや遊び、遅刻などの規則違反は退寮処分につながる厳しい環境でした。毎日12時間以上、休日は14時間以上の勉強が求められました。
夏休みには、同じ班のメンバーの遅刻で全員が坊主になったことも、今となっては良い思い出です。厳しい寮監が、寮を出るときにかけてくれた励ましの言葉が、大きな支えとなりました。
「これだけやってだめなら、もう何をやっても無理だ」という思いで勉強に励み、ついに東京歯科大学への合格を勝ち取りました。合格が決まった時、母も涙を流して喜んでくれたことを今でも鮮明に覚えています。
<東京歯科大学合格と私立歯科大学への抵抗と感謝>
東京歯科大学への進学を決めた時、私は大きな抵抗感を抱えていました。それは、私立歯学部の高額な学費に対する不安でした。私の父は高校教師であり、父の退職金でもまかないきれないほど高額な学費が必要でした。この現実は、私にとって大きな心の重荷でした。
しかし、そのような状況の中でも、父は私の教育のためにその費用を支払ってくれました。この父の行為に対して、私は深い感謝の気持ちでいっぱいです。
父の献身的な支援がなければ、私は歯科医師としての道を歩むことはできなかったです。
父のこのような行動は、私にとって大きな励みとなり、学業に対する責任感を強く意識するようになりました。
私は父が支払った学費の価値を十分に生かすため、そして父の期待に応えるために、大学での学びに全力を尽くしました。
父への感謝の気持ちは、私が今後歩む人生の中で常に心に留めておきたいことの1つです。父の支援と信頼があったからこそ、私は今の自分があるのだと深く感じています。
広島大学歯学部への合格は叶わなかったものの、東京歯科大学への合格が決まったときのことは、今でも鮮明に覚えています。合格の知らせを受けたとき、母は喜びの涙を流してくれました。その瞬間は、私の人生においても、忘れられない貴重な瞬間の一つです。
もちろん、もう一年浪人して国立大学に挑戦するという選択肢も頭をよぎりました。国立大学への合格がしたいという希望もありましたが、最終的には両親をこれ以上心配させたくないという思いが勝りました。
歯学部へ進学し、歯科医師になるという自分の目標を考えたとき、すでに浪人をしている身であり、その道を歩み始めることが最善だと感じたのです。
東京歯科大学での6年間を、両国予備校で身につけた厳格さを自分に課し、全力で学び、素晴らしい歯科医師になるために努力することにしました。この決断は、自分自身にとっても、家族にとっても最良の選択だったと今では確信しています。
浪人時代は、何ものでもない自分にとって、自分と向き合い、一から自分の中のなにか芯になるものを作り上げるための挑戦の時期でした。その厳しさが、結果として私を救い、成長させてくれました。
大学時代 〜青春時代〜
東京歯科大学での一人暮らしが始まりました。大学は当時、千葉県千葉市の稲毛にありました。住みやすい地域でした。
大学に入ったら、部活に入った方がいいよ、ということを新入生オリエンテーションで聞きました。先輩後輩のつながり、またそこで得られる情報が、歯学部卒業や将来のためになるらしい、、、。なんのことかよくわからなかったけど、部活に入ることにしました。
弓道部での青春
大学生活の一つの大きな柱となったのが、弓道部での活動です。日々の練習を通じて、集中力や忍耐力を培いました。弓道は、ただ的を狙って矢を放つだけではなく、精神を研ぎ澄まし、自分自身と向き合う時間でもあります。この経験は、現在の診療にも大いに役立っています。患者様一人ひとりに集中し、最善の治療を提供するための精神的な基盤となりました。
図書館に籠もる毎日
弓道部での活動と並行して、私は図書館での時間も大切にしていました。毎日のように図書館に通い、専門書や論文に目を通し、知識を深める努力を惜しみませんでした。
この習慣は、現在でも続けており、新しい技術や治療法の習得に活かされています。歯科医師としての知識を常にアップデートし、最新の情報を患者様に提供できるよう努めています。
テスト期間の勉強
テスト期間中は、友人たちとファミレスに集まり、夜遅くまで勉強に励んでいました。当時のファミレスは、24時間営業していることが多く、私たちにとっては理想的な勉強場所でした(今ではあまり大きな声では言えませんが、、、)。
仲間と共に問題を解き、理解を深め合うことで、互いに切磋琢磨することができました。
この時期に培った協調性やコミュニケーション能力は、歯科チームとしての仕事にも反映されています。
恩師との出会い
大学時代には、私の人生に大きな影響を与えた二人の恩師との出会いがありました。一人目は、眞坂信夫先生です。先生からは、歯科医師としての責任感と患者様への誠実さを学びました。もう一人は若松宏幸先生です。若松先生は、私に診療技術の重要性を教えてくださいました。お二人の教えは、今でも私の診療方針の根底にあります。
映画部での映画作製
また、大学時代には映画部に所属し、映画作製にも取り組みました。映画製作を通じて、創造力やチームワークの大切さを学びました。この経験は、クリエイティブな視点で歯科診療にアプローチする際に役立っています。特に、患者様にとって安心できる環境づくりや、治療の過程を分かりやすく説明する工夫に生かされています。
卒業論文
大学生活の集大成とも言える卒業論文の執筆は、私にとって非常に大きなチャレンジでした。臨床検査学講座での井上孝教授のもとで、細胞培養・分子生物学的・組織学的な考えの基礎を学びました。
研究テーマを深く掘り下げ、論理的に構築することの難しさを痛感しましたが、完成した時の達成感は言葉にできないほどでした。この経験が、現在の臨床や、発表や学会参加へのモチベーションにも繋がっています。
大阪大学での研修医・大学院時代
大阪大学歯学部附属病院で研修医として臨床の第一歩を踏み出したのは2007年春のことでした。
診療室の歯科医院での薬剤の匂い、施術への意気込み、そして「お願いします」と椅子に腰かける患者さんの緊張した表情――その一つひとつに身が引き締まりました。
器具での触れ方や声かけのタイミング一つで、患者さんの痛みも安心感も大きく変わる。臨床の重みを体で知った日々です。
同じく一人前の歯科医師になろうと志を抱く研修医仲間との出会いは、今も私の財産です。
症例検討や成書の輪読を早朝から勤務時間ギリギリまで行って、急いで診療室に駆け込むことも珍しくありませんでした。
夏には琵琶湖に合宿して、昼は湖畔で日々の研修生活を語り合い、夜は満天の星の下でそれぞれの夢を打ち明けました。冬、研修同期生で行った沖縄では青い海を前に将来の歯科医師像を語りあい、彼らとは今も連絡を取り合い、人生の岐路について相談したり、治療について相談しあい、困った症例を投げ合える一生の同期です。
東京歯科大学の学生時代から研究をしたい!という気持ちを持っていた私は、さらに専門性を深めようと大学院へ進学しましたが、ここで大きな挫折を経験します。
自分自身の臨床に向き合いたちという気持ちと、分子生物学的な研究への理解の無さという壁にぶつかりました。山田講師(現東北大学大学院歯学研究科歯周科教授)に拾っていただきました。
テーマは「Cathepsin Kが及ぼす歯周組織における分子機構解明」でした。細胞培養・PCR・ウェスタンブロッドなど基礎から習得して、未熟さからPCRのバンドがかすれれば徹夜で試薬の調整をやり直す毎日。データの美しさや論理構築の精密さに、国立大学で戦う研究者の凄みを痛感しました。日々実験ノートを書き、クリーンベンチ前に座り、スライドを作成する深夜、「国立大学の歯学研究科で生きていくのか」と自問自答したのはいまも脳裏に焼き付いています。そんな中でも、日本歯科保存学会や日本歯周病学会での発表、JADRでの発表、アメリカサンディエゴで行われたIADRでのオーラルセッションでの発表、学位論文の執筆と、多くの経験をさせてもらいました。
大学院時代の葛藤が私に「生まれ育った地域に戻り、診療と歯科教育を通じて医療を支えよう」という覚悟を与えてくれました。大学院時代に、非常勤で診療に行っていた診療所での、自分の歯科技術を患者さんに提供する。患者さんから感謝される言葉、地域医療を歯科衛生士や歯科医師と実践する姿に影響を受けました。
大学院生活の終盤、4回生最愛の女性と結婚しました。彼女は、私の歯科医人生を陰で支えるかけがえのないパートナーです。結婚式当日、研修医同期や研究室の仲間が駆けつけてくれました。
勤務医時代
大学院修了から一年医局での臨床をした上で、大学時代の恩師・若松宏幸先生のもとへ飛び込みました。
若松歯科に在籍した日々は、単なる「勤務医時代」を超え、私の歯科医人生の背骨を形づくる貴重な時間となりました。
1.地域医療の最前線で学ぶ
若松歯科は大阪の郊外の住宅街にありながら、年齢も背景も異なる患者様が連日訪れる、まさに地域医療の縮図でした。
朝一番の義歯調整に始まり、小児カリエスの予防処置、難症例の根管治療、インプラントの埋入オペもして……。患者さんごとに、症状もニーズもめまぐるしく変わります。
若松先生は「診療は、迅速かつ丁寧に」と口癖のようにおっしゃいました。最短距離で正しい診断に至り、迅速かつ丁寧に処置を完了する。そのための臨床判断力こそ、地域医療を支える要と教えられたのです。
2.資格取得という“探検”への後押し
多忙な診療の合間、若松先生は惜しみなく学びの機会を与えてくださいました。
• 日本歯周病学会 認定医
• 日本歯科保存学会 専門医
• 日本顎咬合学会 かみ合わせ認定医
これら三つの研鑽は、若松先生の理解の元、実地で鍛えられ、症例報告を添削していただいた先生のおかげで獲得できたものです。
さらに――
• インプラント100時間コース
• 小児矯正歯科マスタークラス
• JIADSペリオコース
など、臨床家として幅を広げるセミナーにも参加させてもらいました。座学の知識だけではいけないこと、実際に患者さんに活かせてこその勉強だということを若松先生より指導いただきました。「いかに患者さんに実施するのか。実際にどのように臨床応用するのか?」と質問を投げかけられながら、思考し臨床に向き合ったのを覚えています。
3.スタディーグループKISWでの“リアル”な学び
若松先生が主宰するスタディーグループ KISWでは、地域医療の第一線で活躍する開業医の先生方が忌憚なくその医院経営、症例や失敗談をシェアしてくださいました。成功例よりも、医院経営での困難、治療計画が崩れた理由、患者さんが離脱した要因――そのリアリティにこそ価値がありました。
4.「人生の先輩」から授かった金言
若松先生は臨床技術だけでなく、生き方そのものを示してくれました。
「患者様のことを思え。」
「Win-Winを考えなさい。」
「開業したら“流行らなあかん”。」
「自分のためにじゃなく、人のためにやるんや。」
これらは診療室の壁に貼られた標語でも、学会ポスターに印字された格言でもありません。患者さんが帰った後の院長室や、あるいは懇親会の帰り道で、先生が自然に語ってくださった本心・肉声でした。その抑揚や間合いが、マニュアルにはない説得力を帯び、私のなかで血肉化していきました。
5.臨床家としての“確信”を得た瞬間
若松歯科で診させていただいた患者様は、延べ2万人を超えます。1日30人以上の患者さんの施術を対応し、自費診療と保険診療の垣根を越えて、多様な主訴・背景と向き合った経験が、私に“保険診療医として生き抜ける”という自信を与えてくれました。
たとえば高齢の方の義歯調整では「一発で噛めたわ、ありがとう」と握手を求められ、小児のフッ素塗布では診療チェアに緊張しながらも「痛くなかった!」と笑う姿に出会えました。
そうした小さな成功体験の積み重ねこそ、技術書やセミナー受講では得られない“確信”をもたらしたのです。
振り返れば、マイクロエンド、セレックワンデートリートメント、インプラントや矯正、デジタル歯科の知識は診療の“レパートリー”を広げただけにすぎません。土台は若松歯科で習得した保険診療の徹底した基本と、患者様の幸せを第一に考えるマインドセットでした。
開業準備期
35歳の誕生日を迎えるまでに、自分の歯科医院を持つ――私は勤務医時代、それを明確な目標として掲げました。
以降の3年間は、逆算に基づいて、南大阪でどのような医院を作るか主軸に、歩みを進めました。その準備過程を順をおって、開業を志す読者の指針となるよう書き記します。
1 開業地の選定――原点への回帰
開業地には、出生から学生時代までを過ごした南大阪地域を選定いたしました。土地勘の有無のみならず、地域文化や生活圏の細部を把握している点が、私が行いたい医療とそれを求める患者さんのニーズがマッチできると確信できるからです。さらに、公的統計に基づいて人口動態や医療供給状況を検証し、口腔保健医療の需要が安定的に見込めることも確認しました。
2 理念と言語化
開業時に理念として「南大阪から歯周病を亡くす」と定めました。
この理念を具体化するため、毎朝の通勤時間に「夢ノート」を開き、理想像を自由に書き出しました。
帰宅後は、人口統計・経済指標・医療需要など客観的データを整理し、ノートに記した実現したい夢を数値で補強しました。このアナログとデジタルを往復することで、漠然とした夢が具体的な事業計画へと昇華しました。
3 物件候補の調査――30件以上の比較検証
理念を具現化できる施設を求め、南海本線沿線および幹線道路周辺を中心に30件以上の物件を実地調査いたしました。人口動態、駐車場導線、周辺歯科医療機関との距離、将来的な都市計画などを多角的に検討し、最適物件を絞り込む過程で契約直前に撤回した事例も生じました。結果として、妥協をなくした選定方針が開業後の安定を保証してくれたと感じました。
4 臨床研鑽
開業後に提供する歯科医療を明確化するため、以下の研修・講習会などに参加し、総計300時間を超える研鑽の時間を確保しました。
• SJCD エンドコース
垂直加圧根管充填を中心とした歯内療法技術を学び、CBCT を用いた診断法も臨床に応用する手順を整理いたしました。
• 戸村矯正歯科医院および山田 Dr. 矯正コース
セファロ分析の精度向上と軽度不正咬合への対応方法を学修し、専門医との連携方針を確定いたしました。
• プレオーラルフィジシャン育成コース
歯周病と齲蝕の予防の考えを学び、歯科衛生士が主体的に口腔管理を行う体制を直視し、チーム医療の具体像を把握いたしました。
• 日本ヘルスケア歯科学会
齲蝕・歯周病の病因論と行動変容技術を接続し、長期経過を視野に入れた診療指針を策定いたしました。
5 外部からの刺激を維持する――継続的学習の制度化
研修会で出会った開業医している先輩より「開業後は院長が唯一の歯科医師となる。外部に出て刺激を受け続けなければ組織は停滞する」と助言を頂戴しました。以降、臨床・経営双方の勉強会に毎年1テーマ以上参加することを自分に約束して、継続的学習をしています。
6 読書とブログによる思考実験
診療後の夜間、経営学・マーケティング・組織論など50冊超の書籍を精読し、余白に自院への応用策を記載いたしました。また、妻が勤務医をしている大阪府東大阪市のヨリタ歯科クリニックの寄田先生の予防歯科ブログを熟読し、成功事例と失敗例を対比させることで、シミュレーションの精度を高めました。
開業
1 立地の決定――“視認性”と“車社会”の交点
南大阪で開業すると心に決めてからも、具体的な物件の選定には長い時間を要しました。最終的にご縁をいただいたのは、泉州地域の生活圏で重要なイオン内のテナントでした。イオン貝塚店の1階テナントで、株式会社ヨシダの担当者が提示してくださったものでした。一目で「順調に運営できる」と確信できる場所でした。
泉州全域から患者さんが集まりやすい駐車場完備の生活密着型のスーパー内テナントであること、国道26号線からも近く、初診患者さまが迷わず来院できる視認性を備えていること、「貝塚イオンの1階だよ」と一言で歯科医院の場所が説明できることが決定の鍵となりました。
2 資金調達――覚悟の伴う第一歩
テナント契約に際し、直面したのは巨額の銀行借入という人生初の大きな責任でした。慎重なシミュレーションを重ねた末、池田泉州銀行に融資をお願いし、設備投資と運転資金を確保しました。返済計画書に署名したとき、未来への覚悟へと変わる感覚を覚えました。
3 設備選定――夜を徹した対話と決断
診療ユニットやレントゲン装置、器材、消耗品の選定は、勤務医時代からお世話になっていたウエヤマ歯材の上山社長に深夜まで相談しながら進めました。
限られた予算内で最大限の診療品質を担保するため、導線や滅菌フローをシミュレーションし、削れるコストと妥協できないコストを仕分けしました。
とくにCT、セファロなど大型機器の導入可否は、診療理念と返済計画を天秤にかけながらぎりぎりまで議論した部分です。開業時に断念した器具としてインプランター、マイクロスコープ、IOS、ミリングマシーンなどその後、早期に導入できるように検討しました。
4 人材採用と内覧会――ゼロからの組織づくり
採用と初期育成は歯科コンサルティング会社Good Oneの高橋社長に伴走していただきました。
求人媒体への掲載、応募者対応、面接、条件交渉――どの工程も初経験であり、不採用通知をお送りするたびに胸が痛みました。
最終的に、歯科衛生士3名、歯科助手2名、受付事務1名の計6名でスタートする体制を整えました。
開業直前の2015年8月、3日間の内覧会を開催したところ予想を上回る来場者数となり、初月には200名を超える患者さんにご来院いただきました。開業準備に奔走した日々が確かな手応えに変わる一方で、「ここからが本当の責任の始まりだ」と身が引き締まる思いでもありました。
5 現実との対峙――経営と臨床の間での苦悩
開業後最初に突き当たった壁は、人とシステムの運営でした。スタッフが辞める。スタッフが来ない。一番衝撃を受けました。オープン当日にスタッフが来なかったのです。そんなことがあるのかと信じられませんでした。
スタッフが退職を申し出る、シフト調整に不満が出る、有給取得ルールが浸透しない、交通費やガソリン代の精算申請が滞る――勤務医時代には想像もしなかった多面的な課題が一気に押し寄せました。
さらに、ハローワークや近畿厚生局はじめ保健所への書類提出、社会保険手続き、労務管理、借入金の月次返済など、経営者としての責務が診療時間外に想像以上に重くのしかかりました。
このような環境下で、初診カウンセリングシートをつくったり、教育チェックリストを用意したり、医院の共通学習DVDを用意したりと患者さんの治療クオリティをシステムとして担保する方法を模索し続けました。理想と現実のギャップは大きく、院長としての未熟さを痛感する毎日が続きました。
6 家族の支え――二人三脚の経営
私には小さな子どもが2人おり、歯科医師でもある妻には多方面で支援してもらいました。診療後の深夜まで仕事をする私を、我慢強く支えてくれました。家族との時間が心の拠り所であったことは言うまでもありません。妻の支えがなければ、開業直後の多忙と不安に押し潰されていたかもしれません。
7 技術研鑽の難しさ――時間と胆力の壁
開業前に先輩からいただいた「開業後に新しい技術を身につけるのは難しい」という忠告をすぐに実感しました。診療後の治療計画の立案・事務作業は深夜に及び、土日の研修に医院を閉めて参加するには、売上減少と人件費固定を天秤にかける必要があります。借入金返済とスタッフ給与の支払いが絶対条件である以上、自己研鑽には強い胆力が求められると痛感しました。
8 心身の限界――過労と救援
開業1年半を迎えた頃、常勤で入職した勤務医が数カ月で退職し、歯科医師が私1人で1日50名以上の患者さんに対応する日もありました。2017年3月31日土曜日、診療中に過労で倒れ、地域歯科医師会の先輩方と非常勤歯科医師に助けていただく事態となりました。この経験は、院長自身の健康管理と就業環境整備の重要性を改めて認識する契機となり、以降は院長に依存する診療体制を抜本的に見つめ直す契機になりました。
9 未熟さの自覚と改善への歩み
この経験は、勤務医的な思考や“サラリーマン感覚”を引きずったまま組織運営に当たっていた自分に、変革しないといけないことを否応なく突きつけました。
労務に関する浅学、有給取得、交通費精算、タイムカード管理といった基本的な設計を軽視したり、求めるものに答えないスタッフへの叱咤の結果、スタッフの不満を招き、組織の崩壊に直結したこともありました。
現在であれば笑い話になるような些細な行き違いも、当時は深刻な経営課題でした。
その後、社労士や税理士、コンサルタントの助言を受け、就業規則の再整備、業務フローのマニュアル化、定期面談制度の導入を実施し、スタッフが安心して働ける環境づくりを優先しました。徹底的にホワイト企業にする。そう心に決めていました。望まない離職が低下し、組織の心理的安全性に配慮した、院内コミュニケーションも活性化しました。
倒れて気付いたこと――“ひとり院長”という限界の自覚
2017年3月31日土曜日、診療終了直後の私は、カルテ整理と明日の治療計画をまとめる途中で過労で倒れました。
救急車に運ばれて、病院ベッドで点滴につながれ白い天井を見上げる時間は、これまでの人生で最も長く、辛く感じられました。
運ばれている間、医院に駆けつけてくださった地域歯科医師会の先生方と非常勤医師の姿に感謝と申し訳無さを感じました。私が不在になった瞬間、医院が動かなくなるという現実──それは「自分が頑張れば何とかなる」という勤務医時代の感覚に固執した結果であり、リーダーに必要な組織構築を怠った報いでした。
● “とにかく自分が”という思考の危うさ
開業後の私は、診療計画の立案から技工物のチェック、スタッフシフトの調整、在庫管理、経理確認、HP・SNS 更新に至るまで、可能な限り自分で手を動かしていました。深夜はカルテと治療計画表を前に、時計が2時を回りようやく明日の診療予定にも目を通す──その繰り返しでした。
「誰よりも長く働けば組織を引っ張れる」「こうなって欲しいということはスタッフに強く言えば変わってくれる」「患者数が増えるほど医院は成長する」。これらは自分の少ない部活や同級生、大学院や勤務医時代に成果を得た経験則でしたが、経営者・院長という立場では通用しないどころか、組織の持続性を脅かすリスクでもありました。
2 リーダーシップとスタッフマネジメントの未熟さ
倒れた翌週、私はスタッフと個別面談を実施しました。そこで耳にしたのは、私の想像を超える本音でした。
• 有給休暇の取り方が分からず休暇申請をためらっている
• 治療方針が院長と合わず、相談する時間も勇気もない
• 業務マニュアルがなく判断基準が各人で異なる
• 院長が常にイライラ・疲弊しているため声をかけづらい
スタッフは患者さんのためによかれと思って患者さん対応をしていましたが、「目指す到達点」と「具体的な行動基準」の両方が曖昧であったため、結局院長依存のボトルネックが発生していたのです。私が倒れた日は、その歪みが極点に達した瞬間でした。
3 医院理念の不鮮明さ
私自身、「南大阪から歯周病を亡くす」という言葉を掲げていたものの、日常業務に落とし込む具体策を十分に示せていませんでした。理念が抽象的なままでは、スタッフは「今日は何を基準に判断すべきか」を掴めず、不安と不満が蓄積します。理念とは行動指針に翻訳されて初めて機能する──この鉄則を私は失念していました。
4 専門家と外部資源を活用する覚悟
その後、私は税理士さんと経営戦略まで考える顧問契約を、社労士さん、弁護士さんとも顧問契約を結びました。就業規則の策定、給与体系の見直し、月次財務分析、人事評価制度の叩き台を外部専門家と協働で進めました。診療時間を削ったケースプレゼンや院内セミナーを定期開催し、私以外のスタッフも主体的に学ぶ環境を整えました。
外部リソースの導入や委任することで自分の時間が生まれ、私は「院長にしかできない仕事」に集中するように意識しました。全顎治療と向き合う、難症例の治療計画を立案する、矯正歯科治療、訪問診療まで含め臨床のオプションを増やす、経営指標を読む、次年度の設備投資を検討する、採用戦略を描く──そのいずれもが医院の将来に直結する仕事です。
5 結果として芽生えた“院長の覚悟”
病床で天井を見上げたあの日、自分の甘さを痛烈に思い知りました。仕事量で勝負するのではなく、方向性と仕組みで勝負する。自分の頑張りを積み重ねるのではなく、チームの力を引き出す構造を創る。院長が倒れても医院が止まらない仕組みを整備することこそ、患者さまとスタッフ双方への最大の責任だと腹に落ちました。
倒れて気付いたのは「院長ひとりで背負う覚悟」ではなく、“院長に依存せず成長する組織を作る覚悟”でした。そこに至って初めて、私は真の意味で経営者としてのスタートラインに立てたのだと考えています。
開業2期〜5期――医療法人化と組織進化の軌跡
開院2年目に入る頃、ありがたいことに、私たちの診療室には想像を超える速度で患者さんが来院してくださいました。
「来てくださる方を断らず、誠実に診る」。若松先生から授かったこの原則を守るため、私は1時間に6名以上を対応する日々を続けました。
●委任と信頼――スタッフ主体の診療体制へ
過労で倒れた経験を契機に、私は診療と運営を段階的にスタッフへ委任する方針へ舵を切りました。
まず、歯科衛生士が主体的に術者として関われるよう歯周治療・メインテナンスプログラムを設計・運用できるよう、担当制とマニュアル作成を進めました。次に、歯科助手/受付がアポイント帳や在庫管理など持続的に取り組めるための棚卸しとマニュアル作りを開始しました。私自身は診断・治療計画・経営判断に集中する形へ移行しました。
委任には「任せ切る覚悟」と「仕組みの裏付け」が不可欠です。
月1回の全体ミーティングを診療時間内に組み込み、課題の可視化と解決策の共有を徹底しました。また、実践型研修と外部セミナーへの参加を支援し、スタッフが主体的に学ぶ文化を醸成しました。
●理念の再定義――「口腔の健康を通じて関わる全ての人々の物心両面の幸福を追求する」という医院理念
組織が大きくなるほど、方向性を明文化する必要性が高まります。私は「口腔の健康を通じて関わる全ての人々の物心両面の幸福を追求する」という理念を掲げ、私たちが良しとすることを7つのビジョンに整理しました。
1)世界最高水準の医療を提供する
2)患者さんを一生涯診る体制である
3)世界最高水準のホスピタリティーを提供する
4)世界に発信する歯科医院である
5)向上心・情熱あるスタッフ・若手歯科医師・歯科衛生士が集まる歯科医院である
6)変化に強い組織であり、働きがいのある仕事場である
7)各個人が、医療界・地域に貢献し、それぞれがリーダーシップを発揮する
このビジョンが定まったことで、院長の目指す方向、何を良しとするか、何を私たちはしないのかが明確になり成長速度が加速しました。併せて組織として強靭であるために、医療法人化を推進しました。
●専門性の深化と多様化
“1人でのワンマン院長”から“多職種連携チーム”へシフトするため、各ドクターと衛生士の得意領域にフォーカスするようにしました。インプラント、マイクロエンド、小児予防、矯正、訪問歯科――それぞれの分野で症例相談会を行い、院内外で研鑽することを良しとしました。歯科医師として臨床に当たるのと同時に私は可能な限りコーチ・コーディネーターに徹し、必要な設備投資と人員配置を判断する役割へ比重を置くことを意識しました。
●地域雇用と社会的価値
診療所の成長は地域の雇用創出と表裏一体です。私たちはパートを含めた多様な働き方を導入し、産休・育休からの復帰支援プログラムを整備しました。結果として、開業5期目終了時点でスタッフ数は20名を超え、泉州地域で安定して働ける医療職を増やすことは、患者さまの長期通院を支えるインフラでもあります。
●理事長には依存しない、全員が主役の組織”へ
開業2期から5期までの4年間は、「患者さまを断らない」という初志を守りつつ、“ワンマン院長”ではなく本当の意味での“チーム医療”を決意し舵を切った時期でした。倒れた経験が教えてくれたのは、リーダー1人の献身では組織は持続し得ないという事実でした。委任、理念の再定義、法人化、専門性の多様化、地域雇用の創出――これらの施策が相互に作用し、現在の医療法人志結会おざき歯科医院の骨格を形成しています。
先に掲げた医院理念と7つのビジョンは、まだ達成の途上にあります。しかし、スタッフ1人ひとりが輝き、患者さんが豊かに健康寿命を支える実感を得られる組織文化こそ、私たちが泉州地域に提供できる最大の価値であると確信しています。
これから
〜1.5次医療機関として地域医療、歯科界への貢献〜
私たち医療法人志結会おざき歯科医院は、これからの10年間で「地域の1.5次医療機関」としての役割を一段と高め、泉州・南大阪の口腔医療を底上げする先導役になることを掲げています。
ありがたいことに現在も多くの患者さんが来院され、スタッフ一同、感謝の念を抱きながら日々の診療にあたっています。しかし来院数の増加は、同時に私たちへの期待値を押し上げるものでもあります。
そこで求められるのは、歯科医師・歯科衛生士・歯科助手・技工士・事務局スタッフ、それぞれが専門性を磨きつつ、チーム全体で高度な医療サービスを安定的に提供する体制です。
院長である私は、その「最善を尽くす舞台づくり」を最大の使命と位置づけています。臨床現場で、各術者が自らの判断で行動できる裁量と責任のバランスを整え、自己研鑽の機会と最新設備を惜しみなく投入します。
経営面では、各部門に権限を委譲することで意思決定を高速化し、各部門が連携し、患者さんの治療を円滑に行い、自身のパフォーマンスを理解できる組織になれるよう進化させていきます。また、週間・月間の症例検討・ミーティングを通じて成長のPDCAサイクルを共有し、良質な反省点を早期に組織としての明文化された知へ転換できる文化を醸成していきます。
地域医療への貢献という観点では、泉州・南大阪から「予防歯科・在宅歯科・デジタル歯科・インプラントから矯正歯科まで包含した全顎治療・歯周治療」の5本の柱をより強固にします。
予防分野では、0歳からの母子プログラムと高齢者フレイル予防プログラムを統合し、ライフステージを通じた口腔管理モデルを確立します。
在宅分野では訪問歯科チームの人員を拡充し、医科・介護領域との連携プロトコルを標準化します。
デジタル分野ではCAD/CAM技術とスキャン技術によりデジタルペイシャントの構築をし、初診・診断から最終補綴までの治療期間短縮を図ります。
全顎治療では、包括的なインプラント治療から矯正治療まで実施して、患者さんを本当の意味で一口腔単位で治せることを目指します。
歯周治療では、患者さんが生涯自分の歯で食事ができるように、歯周基本治療・歯周外科治療のみならずSPT・メインテナンスに通いつづけるモデルをブラッシュアップし続けます。
こうした医療モデルを維持・拡大するには、良質な雇用の創出が欠かせません。南大阪には歯科衛生士養成校が少なく、地元出身の有資格者が不足しています。そこで私たちは、衛生士学校へすすむ者への支援も拡充します。高校ー衛生士養成校の連携を促します。高校生は在学中から臨床の現場を知ることができ、衛生士学校での学びと、卒業と同時に地域医療のキープレーヤーとして活躍できる―そんな循環を生み出すことが目標です。
研修医や若手歯科医師に対しても、単独型臨床研修施設となり、日本全国から志の高いドクターを集めていきます。彼らには地域医療の実際を肌で感じてもらい、症例報告・研究発表・地域啓発イベントを通じてリーダーシップを育む機会を提供します。この仕組みが定着すれば、歯科臨床において泉州発の知見や技術が全国へ波及し、ひいては日本全体の歯科医療レベル向上にも寄与できると考えています。
私自身の時間とエネルギーは有限です。だからこそ「地域医療の深化」「歯科界への貢献」「後進の育成」という三方向に資源を集中させます。私たちの医院が培ったノウハウを若手に伝え、彼らが別の地域で花を咲かせる――その連鎖こそが、歯科医師という職業を選んだ価値を最大化する道だと信じています。
家庭人として──夫・父親の苦悩と喜び
私は、かけがえのない妻と二人の娘の笑顔を守るために働いています。
妻の人生が年々豊かに彩られ、子どもたちが自分の好きな道を自信を持って歩めるように寄り添いたい──それが私の原動力です。
ただし言葉足らずな性格から、その思いが十分に届いているかとなると心許なく、もどかしさを覚えることもしばしばあります。
仕事に打ち込めば打ち込むほど、家庭の時間が削られる。家族との時間を優先すれば、診療や経営のタスクが滞る。
その綱引きはいつまで経っても答えが出ません。かつてスティーブ・ジョブズが「人生の終わりに悔やむのは、家族との時間を取らなかったことだ」と語ったように、私も「忙しさ」を盾に、大切なものを後回しにしていないか自問する日々です。
結局のところ、鍵は権限委譲とチームワークにあり、院長が背負い込みすぎない診療体制づくりこそが、家族との時間を取り戻す第一歩ではないかと模索しています。
40歳を迎えた厄年には、コロナ感染による隔離と急性虫垂炎による初めての入院が重なりました。
病室の天井を見上げながら痛感したのは、健康も時間も永遠ではないという事実です。やり残したメールや未処理の書類よりも、子どもたちと過ごす週末の朝食、妻と言葉少なくとも共にいる何気ない時間のほうが、心の奥に深く刻まれていると気付きました。
以来、私は「今日が人生最後の日でも後悔しないか」を自分の行動基準に置いています。
そのために、手帳を空白で満たす勇気を持つようにしました。
かつては分刻みのスケジュールを誇らしく感じていましたが、今は予定が詰まっていないページこそが、家族と向き合える余白だと考えています。
忙しさは必ずしも価値ではありません。
むしろ「忙しいから」と心をすり減らし、家族に棘のある言葉を投げてしまうほうが、悲しいと感じたからです。
嫌な一言が、もし最後の言葉になったら──そう想像するだけで、語気は自然と柔らかくなります。
また、安請け合いをやめることを自分に課しました。
本当に大切なことに集中するためには、魅力的に見える仕事でも自分やスタッフのキャパシティ、家庭の行事と照らし合わせて「やらない選択」をする勇気が欠かせません。
断ることで生まれた時間を、家族や信頼する仲間との対話、そして自分の健康管理に振り向ける。
それが結果的に診療の質や組織の持続性を高め、患者さんにも還元されると信じています。
もちろん理想と現実の間にはギャップがあります。予定外の急患、どうしても参加しないと行けない業界の仕事――日常は想定外の連続です。
私が歯科医師として得た知識や技術は、最終的に家族や地域社会の幸福へ還元されてこそ意味を持ちます。だからこそ、家庭人としての喜びと重責を胸に刻みながら、今日という日を丁寧に重ねていきたいのです。
家族に「あなたがいてくれて良かった」と思ってもらえるよう、そして自分自身が「悔いなく生きた」と胸を張れるよう、これからも限られた時間と体力を、本当に大切なものに注ぎ続けていきます。
医療法人メンバーへの想いと、遺言
私は医療法人志結会のメンバーを、戸籍上の家族と同じほど大切に思っています。
内向的で言葉足らずな性格から、私の真意が伝わらず誤解を招く場面も少なくありません。
ときに「偽善」と評されることもありますが、ここに記すのは飾りのない本心です。だからこそ、愛情をもって叱り、ひたむきに努力する仲間には全力で賛辞を贈ります。
私がこの世を去ったあとも、志結会に関わったすべての人が人生の豊かさと成功を手に入れてほしいと、心から願っています。
私は、メンバー一人ひとりが「本当に」幸せになることを常に考えています。
仕事で成果を上げることも、家庭や趣味を満喫することも、同じくらい尊い目標です。精神的にも経済的にも豊かな人は、豊かな考え方をしています。
その礎を築けるよう、私は親身に接し、学びの機会と挑戦の舞台を用意してきたつもりです。もちろん全員と100%心を通わせるのは不可能でしょう。
しかし、ここで出会い、生涯を支え合える本当の仲間が一人でも二人でも見つかったなら、それはかけがえのない財産です。どうかその縁を大切にしてください。
自分の人生に責任を持ち、自ら切り開いてください。真剣に取り組む姿勢は必ず誰かが見てくれています。
後輩や同僚には惜しみなく温かい手を差し伸べ、先輩には敬意を払ってください。
私たちは決して一人では生きられません。助け合い、支え合い、感謝し合うことで組織も個人も力強く成長します。
判断に迷ったときは、利益よりも道徳心を優先してください。それが長期的な信頼と幸せへの最短距離です。
作家・井上靖の言葉に「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」という一節があります。
私はこの言葉が真理だと思います。どうか希望を語る側の人であってください。
努力は必ずしも今日報われるとは限りません。しかし継続する姿勢は、周囲に勇気と刺激をもたらし、いつか自分自身を思いもよらぬ高みへと導きます。
志結会は、皆さん一人ひとりの手で未来を形づくる組織です。私の役目は舞台を整えることにすぎません。
どうか互いに敬い、学び合い、支え合いながら、自分と大切な仲間の幸せを築いてください。
それこそが私の何よりの願いであり、遺言です。
<締めくくり:永続する理念とビジョン>
私の人生がいずれ終わりを迎える日が来たとしても、私が医療法人志結会を通じて実現しようと努めた医院理念と7つのビジョンは、続いていくと信じています。
私の想いと取り組みは、法人の基盤に深く根ざしており、これらは私個人の存在を超えて、長く残り続けるでしょう。
私が築き上げたこの法人は、単なる医療提供の場に留まらず、働く者の自己実現の場となり、患者の健康と幸福を追求する哲学を具現化した場所です。
私が生きている間に培った価値観、歯科医療への情熱、そしてコミュニティへの貢献の精神は、医療法人の文化として継承され、次世代のリーダーたちによって引き継がれていくことでしょう。
私の死後も、私がこの医療法人で実現しようとした理想は、スタッフ、患者さん、そして社会全体に影響を与え続けるはずです。この医療法人は、私の生きた証として、私の理念を未来に伝え、それを実現するための道標となり続けることを願っています。
私の願いは、医療法人志結会が、私が目指したような患者中心のケア、高品質な医療サービス、そして地域社会と歯科医学界への深い貢献を続けていくことです。私の精神がこの医療法人の中に息づき、未来へと続いていくことを心から信じています。
このメッセージは、私がこの地球上で生きてきた証として、そして私の信念と医療法人にかける情熱を未来に伝えるためのものです。私の言葉と活動が、未来の誰かの心に響き、彼らの人生やキャリアに何らかの影響を与えることを願っています。
私は、私の生涯を通じて培った経験と知識を、次世代の医療従事者や経営者に伝え、彼らがより良い未来を築くための助けとなればと思っています。この医療法人は、私の人生の仕事であり、これを通じて社会に貢献し続けることが、私の最大の願いです。
〜2025年5月29日 カウンセリングルームにて〜
参考文献・参考情報:私が人生で影響を受けた本やメディア
これまで多くの本を読んできました。その中でも自分の人生を変えたと思う書籍をシェアさせてもらいます。
- 夜と霧:高校時代に読んだ書籍です。絶望の中でも希望を忘れない。
- アンネの日記:第二次世界大戦中ナチスによる迫害の中を生きたユダヤ人のアンネの日記です。困難の中でも明るさとユーモアを持って生きる姿が眩しいです。。
- 相田みつを詩集:人の強さと弱さを受け入れる。それでも生きていく命を愛でる気持ちを学びました。
- 僕らの7日間戦争:中学生の時に読んだ小説です。思春期、大人への抵抗。自我を確立していくことを模倣できたと思います。
- 生物と無生物の間:生命とななんだろう。命ってなんだろう。大学生の時に何度も読み返した本です。
- 文明の衝突:アメリカ同時多発テロ事件を大学時代に目の辺りにしました。その時、世界情勢を初めて知った書籍です。
- 思考は実現化する:大学時代、自分の人生を自分が切り開いていく、ということを初めて想像させてもらった本です。ナポレオン・ヒル著。大学時代に何百回も読んだ書籍です。ふつふつとした歯学部時代、まだ何者でもない自分が、社会人として、成功したいと願って読んでいました。大学時代に卒業論文を書いたり、病院実習で大班長をしようと思ったきっかけでもありました。
- 稲盛和夫「生き方」:大学時代何十・何百回も読み返した本です。経営者になるとは、その生き方とは、考えを深めさせてもらった本です。今でも読み返します。
- 二重らせん:DNAが遺伝情報であるということを発見したワトソンの自伝です。高校時代、生命の本質を初めて知った高揚感、研究によって新たな事実が発見されて、あらたな科学の時代が切り開かれることに興奮しました。
- DNA:DNAを発見したワトソンその後ヒト遺伝子情報を全部読解していくプロジェクトを立ち上げました。その自伝です。新たな時代の空気が非常にエキサイティングに感じました。
- りんぐ、らせん、ループ:高校時代に読んだ小説です。リングはかつて一大ブームを巻き起こしたホラー小説ですが、そこから続く「らせん」で生物学をベースにした小説、「ループ」では仮想現実をモチーフにした小説です。思考が拡張されていく小説にワクワクしています。
- サピエンス全史、ホモデウス、21レッスン:人類の起源から、現在。そしてこれからのアップデートされる人類についての考察。それらを俯瞰しての現在の生き方への示唆が非常に面白いです。
- 7つの習慣:日常生活を自立する。自分の生き方、インサイドアウトの生き方。周りへの貢献をゴールとする。
- 渋谷で働く社長の告白:インターネット黎明期。当時日本最年少で上場した、藤田晋社長の自伝です。自分が研修医、新社会人になった時当時ほとんど自分と同じ世代で、輝いていた藤田社長に憧れを抱いていました。
- ユダヤ人大富豪の教え:本田健さんが書かれた本。自分が医療従事者としてはたらく、経営者として働く、それに夢いっぱいだった時。身体を壊し、歯科医療ができなくなった歯科医師の先輩先生からオススめされた書籍です。自分の1人間としての生涯。働く、その先になにがあるのか、自分の1人間として人生に向き合うために読んだほうがいいとお勧めされました。
- ビックヒストリー:
- 早回し全歴史:

歯科医師
dentist
⻭科助⼿・受付
assistant
一般職・技術職
generalsDr・DH向け、
無料キャリア相談会実施中
あなたのキャリアをどのようにデザインしていくか、理事長の尾崎亘弘が一緒に考えます。
おざき歯科医院に興味のある人も、そうでない人もぜひ一度ご連絡ください。
あなたの輝かしいキャリアを一緒に描いていきましょう!
